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連載「TJAR2014 30人の勇者たち」Vol.24 2014年の勇者たち (19)千原昇

2016.04.30

2014年の勇者たち(19)千原昇 ナンバーカード27 DNF(2日間9時間37分 三俣山荘)※初出場

松田珠子=取材・文

 「中度の低体温症」――大会3日目(8月12日)の早朝、千原は北アルプス・三俣山荘の診療所でそう診断された。体温は34℃だった。三俣山荘に辿り着くまでの間に、何度も転倒を繰り返し、打撲を負った顔面は腫れ、ウェアも破れた状態だったという。すでにリタイアを決意していたが、自力では下山できない状態だった。千原のサポートのため、既にリタイアしていた実行委員代表・飯島浩と、福山智之・岩崎勉が三俣山荘に合流し、翌日、無事に下山した。だが「自己責任」「自己完結」が理念のTJARにおいて、救助が必要なほどの低体温症に陥ったことは「あってはならないこと」(飯島)であった。
 千原自身、それは十分に理解していた。一時は、山をやめることも考えたという。だが「失敗を今後に生かしたい」と、次なる目標に向け、すでに歩みを始めている――。
 

<トライアスロンでアイアンマン出場>

 TJAR14年大会の翌月、千原は50歳の誕生日を迎えた。現在、51歳だ。
 ランニング歴は長い。中学、高校、大学と陸上部に所属し、いずれも中長距離種目に取り組んできた。地元・六甲山の山も、中学時代から走っている。
 「中、高、大と練習で山を走るのは当たり前でした。中学の頃から六甲山を走っていました」
​ トレイルランニングという言葉がない時代だが、今思えばトレイルランニングそのものだった。ゆえに「トレイルラン歴は36年」(千原)だ。

 社会人になってからはトライアスロンを始めた。
 「たまたま、トライアスロンの雑誌で写真を見て。トライアスロン用のダウンヒルバーの自転車を見て、かっこいい、これに乗りたい、と思いました」
 自転車を購入し、ランニングとともに、自転車、水泳も始めた。スイム3.8㎞、バイク18㎞、ラン42.195kmのトータル226㎞のアイアンマンに取り組み、社会人3年目の90年には、ハワイで開催されるアイアンマン世界選手権にも出場した。



90年、トライアスロンのハワイアイアンマン世界選手権に出場、完走した(写真提供=千原)

 

 その後、職種が研究職から営業職に変わり多忙になった。しばらくトライアスロンから離れ、「週末に近所をランニングする程度」となった。再びトライアスロンに取り組むようになったのは04、05年の頃だ。
 TJARの存在は、トライアスロンをやっていたころから知っていた。だが「自分の領域ではない」と思っていた。
 「トレイルランはやっていたけど、アルプスは行ったことがなかった。テントを背負うこともほとんどなく、ビバークの経験はありませんでしたから」
 めざすきっかけとなったのは、11年に職場の後輩から誘われてSNSから広がった登山同好会「ファンクライム」に入り、“山ヤ”の知り合いが増えたこと。そしてもう一つは、12年春、TJARの実行委員メンバーでもある田中正人の地図読み講習会に参加したことだった。
 「机上講習を受けて、六甲山に地図とコンパスを持って入るという企画。地図とコンパスを使ったのが初めてで、その中で、もしかして、地図読みをきちんとやれば、あの日本アルプスを縦断するレースに出られるんじゃないか? と思ったんです」
 翌週にはさっそく、地図読みの練習のため、大阪城公園内に設定されたオリエンテーリングのパーマネントコースに足を運んだ。
 さらにTJARへの興味を強くしたのは、12年大会後に放映されたNHKスペシャルを見てからだ。
 「放映を見てTJARに出たいという気持ちが強くなりました。めざすためには、高い山に行かないといけないな、と。その年の秋に『ファンクライム』の人たちと日帰りで槍ヶ岳に登ったのが、最初のアルプスですね」

 13年には、中央アルプスへ。ビバークも経験した。岩稜地帯を歩くのは初めてで「こんなに足場がガレているのか」と驚いた。参加要件を満たすため、住んでいる神戸から日本アルプスまで、4~5回は足を運んだ。
 そして14年大会の選考会には、ファンクライムの仲間と4人でチャレンジ。結果、千原だけが本戦の出場切符を手にした。
 「ランニングの走力アップもそうだし、天気やエマージェンシー(非常時)のことなど、勉強もいろいろしました。そういうのが生きたんだと思います」


14年大会、ミラージュランドでの開会式。ビブスナンバー27が千原

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