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「TJAR2016 - 鉄人たちの熱い夏」 Ver.20 新藤衛

2018.07.23

TJAR2016 - 鉄人たちの熱い夏」 Ver.20 新藤衛 ナンバーカード25 6位(5日間23時間31分) ※初出場

取材・文=松田珠子

 

 全長415㎞のTJAR、最後の砂浜に続く堤防の階段を上がると、ゴールのフラッグまでの80mほどの距離が「遠い……」と感じた。脚の痛みに耐え続けたレースだった。

 最後は激痛と疲労で、気持ちをしっかり持たなければ意識が飛ぶのではないかと思うほどだった。待ち受けていた仲間たちの声援を受けながら、歯を食いしばり、フラッグをめざした。

 さまざまな思いを乗せてめざした完走。ゴールフラッグの下で、新藤はおもむろに一枚の写真を取り出した。写っているのは、TJARを共にめざしながら、13年に北アルプスで亡くなった“先輩”だ。天に写真を掲げ、完走を報告した。

 


ゴール後、山で亡くなった仲間の写真を掲げて見つめる新藤(写真=宮崎英樹/MtSN)

 


<「MTBの元日本代表」は自分への戒め>

 大阪出身・在住の生粋の関西人だ。MTBの元日本代表と聞いて、スポーツエリートの道を歩んできたのかと思いきや、意外にも、少年時代の新藤は体が小さく、体育の成績は常に「べったこ」(大阪弁でビリの意味)だったという。

「駆けっこはいつもビリ。自転車の補助輪も、周りの中でいちばん遅くまで外せなかった。乗れるようになったのは小学校2年か3年の頃ですよ。野球もやっていたけど、いつも球拾い。運動ができないことが当たり前すぎて、コンプレックスすら抱かなかった」

 父はワンダーフォーゲル部出身、野外活動の指導員だった影響で、山に連れていってもらうこともあった。自然豊かな環境に身を置くことは好きだったが、それ以上に少年時代に好きだったのが、本を読むことだった。「本好きで、活字であれば辞書でもチラシでもなんでも読んでいた」と振り返る。

「競技」に打ち込んだのは、オートバイが最初だった。高校生の頃、時代はオートバイブームの最中だった。「周りに流されるように」免許を取得。友達と一緒にレースに出場したことがきっかけで、熱中するようになった。

 新藤は当時をこう振り返る。
「ロードもモトクロスも、中古レーサーまで買って気合十分でした。“下手の横好き”で常に予選落ちだったけど、楽しかった」

 オートバイで遠出することも好きだった。ツーリングに合わせて、日本百名山の山に登った。

 ところが、19歳のとき、オートバイ事故で頸椎損傷の大ケガを負う。入院は2カ月に及んだ。
「首がフラフラする寅の置き物があるじゃないですか。あんな感じでした。スポーツができるようになるなんてまったく思わなかった」

 リハビリを2年続けた頃、ようやく回復の目途が立つと、医師から「筋力をつけるために運動をしたほうがいい」と勧められた。22歳のときだ。
 新藤が興味を持ったのは自転車のロードレーサーだった。だが、サドルにまたがった姿勢は首への負担が強く、断念した。代わりに選択したのが、当時人気が出始めていたMTBだった。
 最初はMTBに乗っているだけで楽しかったが、大阪で初開催されたレースに出場。結果は予選落ちに終わったが、「なぜかスイッチが入り」(新藤)、以来、MTBにのめり込んだ。周りに教えてくれる人も、教本や情報もないなか、試行錯誤でトレーニングを重ね、翌シーズンには地方レースで10勝を上げるまでに実力をつけた。トントン拍子で、スポンサーもつくようになり、翌年には全日本のトップカテゴリーに昇格。プロではなく仕事をしながらであったため、自転車の専門誌に「日本最速のサラリーマン」と、特集記事を組んでもらうまでになった。



自転車競技時代の写真 撮影者:吉見幸男さん

 

 全日本のトップカテゴリーで3年目のシーズン、代表選考レースで2位に入り、新藤は日本代表として世界選手権への出場を果たす。だが、競技生活は順調とはいかなかった。膝を痛め、数度、手術をした。代表入り後、2年間にわたり全日本選手権に出場したが、30歳で引退した。

 新藤は振り返って語る。
「日本代表になったとはいえ、出場した世界選手権では予選落ち。日本国内では優勝したことはない。30歳になって『引退』という形をとりましたけど、失意の中でやめざるを得なかった。『挫折』ですよね」

 その後10年間は、運動らしい運動から離れていた。競技時代を思い出すのがつらく、できなかった、という言い方が適切だろう。MTBの世界選手権代表という、本来であれば輝かしい過去も、新藤にとっては苦い記憶でしかなかった。
「MTBの競技をやっていました、と自分から言えるようになるまで、10年かかりました。10年たってやっと、自分には才能がないのだということを受け入れられた。MTBの経歴は、才能がない自分への戒めなんです」

「才能がない」とまで言い切ってしまうのは、どうしてなのか――。
「競技をしていた頃は、24時間、MTBで強くなることしか考えていなかった。それを何年も何年も続けて、それでも日本で1番にもなれなかった。それは才能がなかったからだと、はっきりわかったんです」

 

<42歳から始めたランニング>

 42歳で走り始めたきっかけは、町内の運動会で転倒してしまったことだった。
「よくおっさんとかが運動会で転ぶでしょう。お恥ずかしい話ですが、あんな感じで、足がもつれて転んでしまった。これはマズい、と」
 引退して10年以上たち、競技に打ち込んでいた記憶が薄れてきた頃だった。家族で訪れた千里万博公園で、たまたま見つけたクロスカントリーレースのチラシに興味を持った。
「走ったこともないのに、試しに出てみようと思って、10㎞のクロスカントリーの大会に申し込んだんです。MTB時代に膝を痛めているので、芝生なら脚にもやさしいかなと」

 レースの10日前にランニングシューズを購入。練習らしい練習はほとんどしなかったが、当日は47分で完走した。いきなりのレースは苦しかったが、疾走感、ゴール後のすがすがしさは格別だった。すぐに次のレースに申し込んだ。

 初マラソンは第1回京都マラソン。記録は3時間22分だった。
「最初の3年くらいは冬場しか走っていなかったんです。2回目のマラソンが3時間5分で、やっぱり冬場だけじゃあかんなと。年間走るようにしたら、3回目のマラソンでサブスリーを達成しました」

 高校生の頃からオートバイのツーリングのついでに百名山を巡っていたように、山はもともと好きだった。日本アルプスの主な稜線は20代半ばまでに踏破していた。MTBのオフシーズンには冬山にも登っていた。MTBの引退と同時に登山もやめてしまっていたが、フルマラソンに取り組むようになった頃、登山も再開した。

 2011年秋、久しぶりにアルプスへ。北アルプスの笠ヶ岳に登った。このとき、山小屋で手に取った雑誌の記事で、TJARのことを知った。
「田中正人さんの記事だったと思います。こんなアホなことをやっている人はどんな人たちなんだろうと、興味を持ちました」(本人注:大阪弁の「アホ」とは、『自分にはできない』や『すごいこと』という好意的なニュアンス)

 翌年、TJARの本戦に合わせて、黒部五郎小舎まで応援に行った。このとき、選手たちの行動時間の長さに驚愕した。
「小屋の人いわく、トップの選手(望月選手)は前の晩の20時に通過して、まだ走りたいからと槍ヶ岳に行ってしまった、と。20時でまだ走りたいとは……理解しがたかった。
 その後、雨に打たれながら、続々とやってくる選手を間近に見て「自分とは無縁の世界」と感じた。だが、下山後、選手たちの移動速度を調べてみると、自分のペースとそう変わらないことがわかった。
「自分にも可能性はあるのではないか」――14年を目指してみようという気持ちになった。

 13年夏、同じく14年大会をめざす仲間2人とともに、参加要件を満たすため「実績づくり」に臨んでいた矢先、仲間の一人が北アルプス・穂高の稜線で滑落し、亡くなるという事故が起きた。仲間のもう一人――ハセツネ12年女子王者の佐藤光子と3人で北アルプスに入っているときのことだった。
「私と佐藤さんはTJARの本戦のルートをたどっていたんです。その亡くなった先輩は、親不知から後立山連峰経由で上高地まで行くと。事前に先輩から相談があり、槍~穂高の稜線にも行きたいと。8月のお盆の時期で人も多いし、何かのついでに行くような場所ではないですよね。『やめときなはれ』と言ったんです。そのときは『わかった、そのまま上高地に下りるわ』と言っていたが、行ってしまった。あと少しで普通の登山道だったのに、滑落されて……」
 新藤から見て、本来は決して無謀なタイプではなく、むしろ慎重でわきまえのある人だった。
「そういう人でも山は一瞬で命を奪うんだなと……」
 14年は、先輩を太平洋まで連れて行く、と誓った。

 ところが、14年の選考会は落選。地図読みの精度が不足していたことが理由だった。
「実際は、読めないのではなく、老眼が進んでいて見えなかった」
 一緒に選考会に臨んだ佐藤光子さんも通過ならず。佐藤さんは最初で最後の挑戦と決めていた。新藤もその時は、もうやめよう、と思っていた。
 再挑戦のきっかけは、14年大会後、ともに予選会を落選した男澤博樹が企画した「TJAR西日本慰労会」に参加したことだった。
「皆が苦労話を笑い飛ばしている姿に、一度あかんかったからとあきらめるのはあかんなと。同じく14年に落ちた男澤から『もう一度めざしましょう』と言われたのが大きかった」
 次こそ、亡くなった先輩を太平洋に連れていく――再び、新藤は心に誓った。

 新藤の月間走行距離は、100~150㎞程度と、TJARに出場するような選手としては少ない。
「ジョギングみたいにゆっくり走るのが嫌なんです。ついタイムトライアルみたいに走ってしまう」というのが理由の一つだろう。レースに出ることや、本人にとっては「遊び」だという「俺チャレ(俺のチャレンジ)」も、強さにつながっているようだ。過去の「俺チャレ」では、太平洋(和歌山の新宮)を出発し、大峰奥駈、ダイトレ、京都東山、比良山系、高島トレイルを経て、日本海(福井の敦賀湾)まで430㎞を5日間で踏破したこともある。六甲、京都、高島、熊野古道などロングトレイルの1DAY縦走(24時間)を行なうことも多いという。

 地図が「見えなかった」14年の選考会の反省から、16年の選考会は、老眼鏡とルーペまで用意して臨んだ。悪天候のなか、山行や地図読みは問題なくこなしたが、雨で軟らかくなった露営地でのシェルターのペグの固定がうまくいかなかった。
「もうダメだろう……」
 あきらめていたが、結果は合格。
「合格を喜ぶより『出場が決まった、どうしよう』という気持ちの方が大きかった」
 当時の気持ちを、新藤はこう振り返る。

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