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「自由になりたかった」〜ハセツネ女子最速記録保持者・櫻井教美の素顔<後編>

2019.08.22

これは、ハセツネ女子最速記録保持者の単独インタビューをもとに『マウンテンスポーツマガジン トレイルラン 2019夏号』(山と溪谷社・2019.7.19発売)で掲載した内容を加筆修正した完全版の<後編>です。

取材・文=山田 洋
写真=佐藤正巳、一瀬立子


穏やかな表情で当時のことを振り返る櫻井さん


■「泣いてねーし!」
前編で紹介した抜粋記録を見て気がついた人がいるかもしれない。櫻井さんはトラックを周回する24時間レースにも挑戦しているが、そこでは突出した成績を残せていない。

「たぶん、自分にとって24時間は長すぎるんです。魔法瓶の花の絵の話をしましたけど、私にとって没頭できる集中状態と言いますか、集中力が続くマックスが10時間くらいなんだと思うんです。距離としてフルマラソンは短かかったけど、時間として100㎞のロードやハセツネは最適だったのかもしれませんね」

少し余談だが、どんなアスリートにも勝気な一面がある。性格上、表に出さないタイプの人もいるが、櫻井さんと話をしているときにも彼女の勝気な一面を感じる瞬間が何度かあった。それはときどき表現がキツくなるときだ。それは私にとって親近感に繋がり、性格の一端を垣間見られて興味深かったのだが、その代表的な一例がハセツネ最速記録を樹立した年のゴール直後の写真だ。倒れるようにフィニッシュした櫻井さんを捉えたその写真には「涙」の文字が躍った。

「『涙のゴール』とか『号泣』とか書かれていて、『私、泣いていません!』って反論したことあるんですよ。『泣いていましたよ!』↔︎『いえ、泣いていません!』の押し問答になったことを覚えています。実際ですか?  全力を出し切ってゴールしたので、息が辛くてハァハァしていただけで、泣いていないんです。よほど悔しかったんでしょうね。今回の取材をお受けして過去の記事を探していたら、該当記事に『泣いてねーし』と付箋を貼ってました(笑)」

 


08年のハセツネ女子最速記録を樹立した時の記事には櫻井さんの反論の付箋が貼ってあった

 

高村貴子からの質問〜どんな練習をしていましたか?
現在3連覇中の現代のハセツネ女王・高村貴子も、櫻井さんの最速記録を強く意識している。そこで、何か聞いてほしいことはないかと尋ねるとド直球の質問だった。
「当時はどんな練習をしていましたか?」

「今以上に速く走ろうとしなくても、"上手く走る"だけで、かなりある程度までタイムは縮まります。実際、それが私の挑戦でした。ハセツネのように山の場合、ロードに比べると不測の事態も多く、走るたびになんらかのトラブルや反省がありました。そのトラブルが次回なければ、今回よりタイムは縮められると考えて取り組んでいました。逆に何か起こればすぐに、30分や1時間のロスは免れないという不安が付きまとうのも山のレースです。私は、思いつくあらゆる事態を想定して、ギリギリのところでの対処法をイメージしつつ準備していました。でも、6回走ったわけですけど、コースは覚えていないので、コースを攻略したイメージはなく、最後は自分の持てる力の範囲で"上手く走る"ってことでしょうか。もっとタイムを縮めようと思ったら、走力自体を別の次元に上げていかないといけないですが、それはかなり大変なことです。それ以上のことはよくわかりません。期待していた答えじゃなかったらごめんなさいね」

 


櫻井さん直筆のハセツネの自己記録。年々記録を縮めていった

 

アン・トレイソンと幻のウエスタンステイツ
櫻井さんを外の世界=海外に導いた人物がいる。東京医科歯科大学の井上明宏さんだ。彼女が「ウルトラマニア」と呼んでいた井上さんは、一人の人物の逸話を話してくれたという。それは米国の伝説的ウルトラランナー、アン・トレイソンだった。

メキシコの奥地でひっそりと暮らす「走る民族」ララムリの存在を世に知らしめたベストセラー『BORN TO RUN〜走るために生まれた』(NHK出版)の中でも登場してくることもあり、彼女の名前を知る人もいることだろう。
彼女は、米国で最も古く最も権威のあるレースといわれる「ウエスタンステイツ100」において、14度の優勝を誇る。そのアンが94年に打ち立てた17時間37分51秒は、エリー・グリーンウッドに破られるまで18年間も君臨し、「レッドビル100」で94年に残した18時間06分24秒は、25年経った今も破られていない。アンは、20のワールドレコードを樹立し、現在も10ほどの記録を保持するスーパーレジェンドだ。

「ロードに専念した07年、IAU100㎞W杯に出場したんですけど、会場だったオランダのウィンスホーテンはアンが95年に8時間00分47秒を出した場所で、同じ地で走れる喜びでいっぱいでした。実際、練習の時と本番の2度、アンが『私について来なさい』と出てきたんです。妄想の世界なんでしょうけど、彼女に導かれるように走ると8時間00分28秒。最後に彼女(の記録)を抜いたんです」

井上さんが櫻井さんに熱心に勧めていたレースがある。それが「ウエスタンステイツ100」だ。井上さんは櫻井さんを”日本のアン・トレイソン”と思っていたのだろう。

「井上さんがやたら言うからウェスタンステイツの応募書類を郵送しました。でも、戻ってきちゃったんです。エントリー費の小切手を同封していたから書留で送ったんですけど、書留って受け取りサインが必要だから手渡しなんですね。何度か配達の方が事務所に持って行ってくれたみたいなんですけど、誰もいなかったのか、”不達扱い”で戻ってきました。今思えば、縁がなかったのかな(笑)」

この話は、ハセツネ最速記録を出した「08 年か09年だったかも?」と定かではないそうだが、エリー・グリーンウッドが破った2012年よりも前であることは確かだ。もし、あの当時に櫻井教美がウエスタンステイツを走っていたら、また違う伝説が生まれていたかもしれない・・・。


カリフォルニア州で開催される世界で最も古く権威のある100マイルトレイルレース
 

表舞台から消えた理由と現在
女子で初めて9時間の壁を破った第16回 ハセツネCUP(08年)以降、櫻井さんは表舞台から姿を消す。それはハセツネだけでなく、ロードのウルトラも同じだった。なぜだったのか?

「08年のハセツネで記録を更新したとき、それまで必ずあった『イメージ通りに走れたことと同時に、次のイメージがすぐに浮上してくる』というルーティンのようなイメージが全く湧かなかったんです。これでやっと辞められるって思いました。それともう一つあって、自分だけの世界に入り込んでいた時間が長すぎたのか、他人に興味を示さない"嫌な人間"になっていたことを自分でも分かっていたんですよね。早く元の自分に戻りたいというか、このままでは本当に嫌な人間になってしまうという危機感がありました。解放されたんですかね。やっと自由になれたのかもしれません(笑)」

数々の栄光の証であるメダルや賞状・トロフィーなどは、全て実家に送ってしまったそうだ。過去に興味はなく、いつも前を向いて進む櫻井さんの人格を見た気がした。

 


過去に固執しない櫻井さんが自宅に唯一持っている優勝カップ。結婚パーティーでお酒を飲むために使ったという


現在の櫻井さんは、視覚と聴覚の両方に障害を併せもつ『盲ろう者』を支援する認定NPO法人東京盲ろう者友の会で「通訳・介助者」として活動している。
「(ヘレン・ケラーのサリバン先生のように)手指を使ってコミュニケーションを取る触手話の講習を受け、盲ろう者支援をしています。もともとのきっかけは、サロマを走っている頃に盲ろう者の方達と出会っていたことですけど、ハセツネからも遠ざかったあるとき、マラソンに挑戦する方のサポートをお願いされたことがありました」

女性ランナーには女性サポートがいい。走るという行為以上に、トイレなど衛生面も女性だから気が届く。これまで東京マラソンなどで何度か伴走をしている櫻井さんだが、2011年には伴走役で100㎞のウルトラマラソン完走のお手伝いをしたこともあった。

自分のことだけに集中していた“ハセツネ時代”と比べると好対照だが、学生時代から関心があったボランティアが別の形で実を結んでいる現在、それは人のために新しい人生を歩んでいる姿だった。

「今では月間20㎞も走っているかしらね。先日、山登りに行ったら息が切れてしまいました。ピークの時は月間800㎞も走っていたなんて、今の生活にとってあの頃は、遠い過去です(笑)」
と話す櫻井さんに最後の質問をしてみた。
「当時の自分に声をかけるとしたら、何と言いますか?」。すると、この日一番の温和な表情で答えてくれた。

「よく頑張ったね。大変だったけど、 あそこまで一生懸命になれることに出会えたこと、あなた、本当に幸せだったわね」

 


08年のハセツネCUPで優勝し、表彰式で安堵の表情を見せる櫻井さん

 

 

櫻井教美(さくらい のりみ)
1971年4月20生まれ。埼玉県新座市出身。165cm、A型、既婚。現在、認定NPO法人「東京盲ろう者友の会」で通訳・介助者として盲ろう者を支援する活動を行なっている。

 

 

 

 

 

「自由になりたかった」〜ハセツネ女子最速記録保持者・櫻井教美の素顔<前編>

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